渦巻く知識

第九部


僕の岸辺には船が来る。大きな船も来るし、小さな船も来る。けれどもいつも、船の漕ぎ手の顔は見えない。
今日も船が来るだろう。そしてその漕ぎ手は僕に
「あなたが呼んでくれたのです」
と言うだろう。けれどもそれが誰なのか僕には終ぞわからない。モヤのかかった顔を見て、それでも不思議と僕にはその表情が分かった。なぜ分かるのだろうか。僕は、僕の目は彼らの心を捉えているのではないだろうか。僕はひょっとすると、彼らを知っている。彼らの顔が見えない理由も、僕はどこかでその手掛かりを手に入れているのかもしれない。
水平線の彼方に船影が見える。今日も船がやってきた。毎日やってくる船の形を見るのが僕は楽しみだった。今日の船はどんな船だろう。
だんだんと近づいてくると、その船が非常に堅牢な戦艦であることが分かった。旗印は日の丸である。
あの船にはどんな人が乗っているのであろう。いつものように顔は見えないのだろうが、きっと精悍な漕ぎ手がいるのであろうと思われた。船はどんどん近づいて来る。僕の岸辺に入るのだろうか。
船は近づいて来ると、そこまで大きいものではなかった。だがその船の醸し出す威厳は明らかで、僕はその厳かさに憧憬の念を抱いた。
甲板に1人の男が立っている。顔はボヤけていない。はっきりと分かる。僕はその顔に、かつて憧れたある作家の顔を見た。
船は岸辺には着かなかった。離れたところから彼が大きな声で言った。
「君はこんなところで何をしているのか」
僕は答えた。
「僕は船が来るのを待っています。僕は船を持ちません。だからいつか自分の船を出せるように、多くの言葉に触れたいのです。僕はいつか自分の船をこの岸辺から出す時を待っています。」
彼はフッと笑みを浮かべて、一度足下を見てから顔を上げた。その目は爛々と僕のことを見ていた。
「その岸辺から船が出ることがあるのか?多くの人は自分のいる場所を知らない。知らずして彼らはその場所を宿命と呼ぶのだ。君もそのうちの一人かい?
違うな。君は違う。もう気づいているはずだ。君はどこにいる。何をしたい。目を背けたくなるような現実でも目を背けるな。怠惰に走るな。必要なのは船ではない。あの太陽が君を照らしているのであれば、君は既に手に入れているはずだ。」
僕は訝しく思いこう尋ねた。
「僕が何を手に入れているのですか?」
彼は微笑を湛えたままこう言った。
「標を、だ。」
そう言うと彼の船は動き出した。大きく旋回して、僕の岸辺を離れていった。彼は一瞥に伏して僕から目を逸らした。そうして二度と振り返ることなく去っていった。
『標』とは何だろう。僕は今いる場所を宿命と呼ぶだろうか。確かに僕は船を出すことが出来ないでいる。心のどこかで僕はこの岸辺から離れられないと感じている。この岸辺は僕の宿命なのかもしれない。現に僕にはこの岸辺を離れる術を持たない。航海に出るための『標』を持たない。
僕は自分の岸辺を歩いてみることにした。僕の宿命を確かめる事にした。岸辺には船着場がある。そして白浜がある。その先には波状の岩が磯を成している。そうしてぐるりと回るとまた船着場に着く。この岸辺は(岸辺と思っていたものは)島だった。一つの小さな島だった。島の真ん中には鬱蒼と茂る森がある。中腹に一等高い木があって、その周りを低い木々と羊歯が覆っている。小さな島に僕はいた。
砂浜に落ちていた木の欠片を拾って、僕は海を薙いだ。木の欠片は海を割って、小さな小さな渦を巻く。その時すこし島全体が揺れた気がした。
船着場の堤防下を見ると鉛色の壁が続いている。それは島の下にまるで巻き込まれるような形をしている。船着場の先端に行くと、そこから見る海は緑色の闇を抱えていて、それを割くが如く堤防の先端が尖っている。これならばこの海を裂くことが出来るのではないかと思った時、また島が揺れた。
いや、揺れたのではない。傾いたのだ。それは僕のいる方向に少しだけ。
僕はハッとして、森の中を見渡した。古びて苔のむした大きな櫂がそこにはあった。島の真ん中にある高い木と思っていたものの根本に、いつかみた旗が蹲っている。それは紛れもない、僕の旗だった。
ここは島なんかじゃない。船だ。
その記憶を僕が手に入れた時、風が吹き荒び海が荒波を立てて襲いかかってきた。
僕の船はびくともしない。
天を仰ぐと大勢の天使たちが渦を巻いて飛んでいる。逆巻く怒濤が畝りを上げて押し寄せる。
僕の頭の中では今までに辿り着いた船の運んできた言葉たちが渦を巻く。雷霆が迸り轟々たる烈雨が降り注ぐ、幾重にも広がった竜巻が雲を捻切りながら巻き起こる。
しかしそれでも僕の船はびくともしない。天使たちは高らかに賛美歌を歌い幾兆幾京もの言葉たちが渦を巻く。それは荒波も竜巻も烈雨をも跳ね除ける。僕はそれを知っていて、天を仰いだ。
かつてこの岸辺に辿り着いた船々が思い出される。かの漕ぎ手たちの顔が、今ならはっきりと分かる。

彼らは僕だった。
僕自身だった。
その船が海に出た時は誰だったか知らない。
だがこの岸辺に辿り着いた船の漕ぎ手はみな僕だった。
僕の岸辺は既に僕の船だった。それを形成するのはかの辿り着く船たちであった。
あれらの言葉を僕はこの海原で船に変えていく。この船を作るのは紛れもなく海であり、海があるからこそ船がある。僕の船は当に僕の船だった。
賛美歌が聞こえる。天の彼方からこの船を照らすような賛美歌が。